わざわざ島津久光を激怒させた西郷隆盛〜二度目の島流しへ・有馬新七と大山綱良が「二強」だった精忠組・示現流と薩摩〜|西郷隆盛12・人物像・エピソード

前回は「生命を救われ島流しとなった西郷隆盛〜藩士を大事にした薩摩藩・奄美大島での三年・天敵島津久光との「凍りついた」対面〜」の話でした。

目次

有馬新七と大山綱良が「二強」だった精忠組:示現流と薩摩

新歴史紀行
左上から時計回りに西郷隆盛、大久保利通、村田新八、桐野利秋(Wikipedia)

明治維新で最大の光を放った西郷隆盛。

維新の四傑(新歴史紀行)

・薩摩:西郷隆盛・大久保利通

・長州:木戸孝允

・公家:岩倉具視

「維新の三傑」という言葉がありますが、筆者は「維新の四傑」の整理が正しいと考えます。

他にも「維新の十傑」などもありますが、「維新の〜傑」であろうと必ず入るのが西郷です。

幕末の三大志士グループ

・長州・松下村塾:高杉晋作、久坂玄瑞、前原一誠、伊藤博文、井上馨など

・薩摩・精忠組:西郷隆盛、大久保利通、有馬新七、大山綱良など

・肥前・義祭同盟:江藤新平、副島種臣、大木喬任など

幕末の三大巨大志士グループの精忠組の中心人物であった西郷隆盛。

後世、あたかも「薩摩は西郷隆盛中心に回っていた」かのような印象を受けます。

ところが、それは一面的な見方であり、西郷隆盛といえども「志士たちの一人」に過ぎませんでした。

名前生年
有馬 新七1825
大山 綱良1825
西郷 隆盛1828
大久保 利通1830
村田 新八1836
篠原 国幹1837
桐野 利秋1839
幕末:薩摩精忠組に関わる人物

確かに、精忠組は薩摩で最も強力な志士グループでしたが、西郷は「兄貴分の一人」でした。

中でも、西郷よりも年上であり、剣の超達人であった有馬新七と大山綱良は「二強」でした。

西郷隆盛

おいどんは、幼き頃に
手を負傷したごわす・・・

幼少の頃に、喧嘩で手に重傷を負って、武術の道を諦めざるを得なかった西郷。

そして、身体が大きいのは良いとしても肥満傾向が強かった西郷は、武術には向いていませんでした。

薩摩藩士A

チェスト!

示現流という、一種異様な剣術が「藩士の主流剣術」だった薩摩においては、

精忠組P

吉之助さぁは、
立派な人物ごわすが・・・

精忠組P

我が精忠組は、
なんといっても、新七どんと綱良どんだな・・・

示現流の超達人であった有馬新七と大山綱良の二人あっての、精忠組でした。

New Historical Voyage
旧薩摩国父 島津久光(国立国会図書館)
島津久光

大山は、優秀であり、
とても良い・・・

特に、「茶坊主あがり」と言われることもある大山綱良は、島津久光の「お気に入り」でした。

島津久光

西郷も、大山の良いところを
学べば良いのだ・・・

久光は、「同じ精忠組」なのに、両極端な西郷と大山に対して、こう感じていたでしょう。

わざわざ島津久光を激怒させた西郷隆盛:二度目の島流しへ

新歴史紀行
薩摩と海(新歴史紀行)

そして、幕府の追捕を逃れるために、奄美大島に「潜伏させられていた」西郷は、

島津久光

まあ、良い・・・
大嫌いだが、西郷を呼び戻せ!

最高権力者であった島津久光の意向で、呼び戻され、

島津久光

西郷・・・
お前は、先に行き、馬関で待っていろ!

島津久光

良いな!
必ず待っているのだ!

西郷隆盛

は・・・
分かり申した・・・

New Historical Voyage
商人・白石正一郎邸(Wikipedia)

そして、島津久光の上洛の「先陣」となった西郷は、馬関で白石正一郎邸に入りました。

豪商だった白石家は、志士たちをバックアップしており、長州における「志士の根城」でした。

ネットも電話もない当時、情報は、「直接人から聞く」か手紙に限定されていました。

中でも、「直接人から得る情報」は、現在よりもはるかに情報価値が高く貴重でしたが、

西郷隆盛

な、なにっ!!
新七どん達が京で、そんなことを!

西郷達にとって、「掛け替えのない兄貴分」であり、精忠組の中心人物だった有馬新七。

その有馬達の「暴発の可能性」を聞いた西郷は、

西郷隆盛

ここで待ってなんか
いられん!

西郷隆盛

すぐに京へ向かい、
おいどんが事態を納めるごわす!

薩摩藩士S

き、吉之助さぁ・・・
久光様からは、「ここで待て」と・・・

西郷隆盛

そんなことは分かって
ごわすが、それどころではなか!

そして、西郷は独断で久光との約束を破り、京へ向かいました。

数日後、久光一行が馬関に到着し、

島津久光

さて、と・・・
西郷はどこだ?

薩摩藩士S

そ、
それが・・・

これから、久光が激怒することが分かっていた藩士は凍りつきながらも、

薩摩藩士S

じ、実は吉之助さぁは、
京へ・・・

島津久光

な、
なにっ!!!

薩摩藩士S

いや、しかし、それは
我が薩摩藩士のためであり・・・

島津久光

理由はどうでも良い!
私との約束を破ったのだな!!!

薩摩藩士S

そうですが、
吉之助さぁは・・・

島津久光

分かった!
西郷は、もういらん!

かねてから「西郷は大嫌い」であり、「西郷を許してやった」薩摩の絶対君主・島津久光。

もはやこうなっては、誰も久光を止められませんでした。

島津久光

西郷を
ひっ捕えて、遠くに流せ!

島津久光

私は、西郷の顔も
見たくないわ!

New Historical Voyage
大久保利通:志士の頃(Wikipedia)

当時、大久保一蔵(正助)という名前で、島津久光の側近だった大久保利通。

大久保利通

吉之助さぁ!
一緒に死のう!

「絶体絶命」であった西郷に、「一緒に死ぬことを詰め寄った」という話もあります。

後世、冷静に明治政府を引っ張った大久保。

この大久保の性格を考えると、この挿話は「作り話」と考えます。

西郷隆盛

・・・・・

そして、島流しから帰国してすぐに捕縛された西郷。

島津久光

もう西郷は
消えろ!

島津久光

沖永良部島へ
流せ!

西郷隆盛の二度の島流し

・奄美大島:1859年2月〜1962年2月

・沖永良部島:1862年7月〜1864年2月

「二度目の島流し」となった西郷。

「二度目」ですが、今回は「一度目」とは大きく違う性質の島流しでした。

「一度目」は「薩摩が幕府から西郷を守るため」の島流しでした。

ところが、「二度目」は「絶対権力者・島津久光の命令で、犯罪者として」の島流し。

1828年生まれの西郷は、この時、35歳(数え年)であり、分別を持つべき年でした。

ところが、「わざわざ久光を激怒させて、島流し」となった西郷。

本来、西郷の人生は、ここで終了でしたが、歴史が彼を放っておきませんでした。

新歴史紀行

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