「最後の勝利者」となった「忍耐の人」徳川家康の実像〜信長と家康の類まれなる超長期同盟・「長い目」で考える超大戦略〜|徳川家康1・人物像・エピソード

前回は「戦国の覇王・織田信長が睨んだ「日本の中心」京〜「至極常識的な戦法」の上洛戦・義景と信長の間を取り持つ若者長政・朝倉と足利の「両属家臣」だった明智光秀・激怒した朝倉義景〜」の話でした。

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徳川幕府初代将軍 徳川家康(Wikipedia)
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「最後の勝利者」となった「忍耐の人」徳川家康の実像

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左上から時計回りに、織田信長、正親町天皇、徳川家康、豊臣秀吉(歴史群像シリーズ 図説・戦国武将118 学研、Wikipedia)

室町時代の後期である1540年頃から1600年頃までが、「戦国時代」と呼ばれています。

多数の戦国大名が鎬を削って争った戦国時代は、日本の歴史の中で最も人気があります。

様々な大名・武将たちが登場して、「天下取り」レースを演じる戦国時代。

おそらく、日本の歴史において、最もロマンあふれる時代であると考えます。

この中で、「最後の勝利者」となった「忍耐の人」と呼ばれるのが徳川家康です。

鳴かぬなら 殺してしまえ
ほととぎす・・・

鳴かぬなら 鳴かせてみよう
ほととぎす・・・

鳴かぬなら 鳴くまで待とう
ほととぎす・・・

江戸時代に作成されたと思われる「ほととぎすによる天下人三人の描写」が有名です。

江戸時代は「徳川将軍様」の時代であり、一般庶民にとっては、

どうも、徳川幕府の
やることは気に入らない・・・

という気持ちになる傾向が強く、

やはり、徳川には
辛めな評価にならざるを得ない・・・

と言う傾向が強くなります。

「時の権力者」に対しては、「強く批判する」か「阿るか」のどちらかであることが多いのが現実です。

この時、上の「ほととぎす」の中では、

鳴かぬなら
鳴かせてみよう・・・・

という秀吉の「ポジティブすぎる描写」が目立ち、この表現には誰しも好感を持ちます。

鳴かぬなら
鳴くまで待とう ・・・

は、ある意味戦略的ですが「待っている」のが「戦国武将らしからぬ」イメージです。

おそらく、作者は、

まずは、「当時の最高権力者の初代将軍」である
家康だな・・・

次に、「前最高権力者」だった
秀吉を対比的に描こう・・・

まずは、家康と秀吉を「対比的」に考えたでしょう。

いかにも「鳴かせてみよう」と「鳴くまで待とう」は対比的です。

信長はどうするか・・・
「殺してしまえ」かな・・・

そして、最後に信長の表現が考えられたと推測します。

現代、織田信長は「革新者」「日本史上、最大の人物」という評価です。

一方で、江戸時代では、織田信長は「残忍な人物」と言う理解のされ方が多かったようです。

これもまた、当時の徳川幕府初代将軍である家康が、

「元和偃武」で、
これから戦乱をなくす!

と「戦乱の世にピリオドを打った」に対して、

織田家に敵対するものは、
全員抹殺するのだ!

と、ひたすら「戦乱を突き抜けた」イメージが信長だったのでしょう。

とにかく、ひたすら「忍耐を続けた」印象が強い家康。

私は「忍耐」ばかりが
取り柄ではないわ!

家康の真の能力は、もちろん「忍耐」ではなく、もっと違うところにあります。

信長と家康の類まれなる超長期同盟:「長い目」で考える超大戦略

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戦国大名 今川義元(Wikipedia)

1543年に生まれた徳川家康は、大勢の戦国大名と比較すると「超若手」です。

名前生年
毛利元就1497年
北条氏康1515年
今川義元1519年
武田信玄1521年
上杉謙信1530年
織田信長1534年
羽柴(豊臣)秀吉1537年
徳川家康1543年
戦国武将大名の生年

この超若手であった徳川家康は、1560年当時「松平元康」という名前でした。

松平家は三河では
名家なのだが・・・

今は今川義元殿の元で
従属大名だ・・・

事実上、今川義元の家臣同様の扱いだった松平元康という名前だった家康。

まあ、元康殿・・・
元康殿は、我ら超名門の今川家が厚遇しますぞ!

「三河の名家」だったものの没落していた松平家でしたが、今川家は超名門でした。

私の姪と結婚してもらい、
我が今川一門となってもらいましょう!

1556年の、当時14歳(数え年、以下同様)で「今川義元の姪」と言われる築山殿と結婚した元康。

今川家の一門扱いか・・・
それもまた人生か・・・

これは、「今川義元が元康を超厚遇していた」という説もあります。

実際には、義元の本心は、

我が今川は甲相駿三国同盟で、
西へ向かうしかないのだから・・・

尾張の織田を叩くのに、
隣国・三河の松平には大いに働いてもらわねばな!

だったでしょう。

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甲相駿三国同盟(歴史人 別冊「戦国武将の全国勢力変遷地図」)

1554年に甲相駿三国同盟を締結した今川氏は、「西しか攻めようがない」状況でした。

まあ、駿河では
居心地良く過ごさせてもらっているが・・・

この視点に立つとき、「元康の厚遇」は「今川家の都合」でしかなかったのが現実です。

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桶狭間の戦い(Wikipedia 歌川豊宣画)

ところが、この「今川義元の目論見」はあっけなく1560年の桶狭間の戦いで潰れました。

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戦国大名 織田信長(歴史群像シリーズ 図説・戦国武将118 学研)

この織田上総介が、
今川義元の首を獲ったり!

この時、27歳の青年武将だった信長が、巨大な今川を一瞬で潰してしまいました。

松平殿!
我が織田と同盟結びましょう!

そして、「東を固めたい」信長は格下である元康と(対等)同盟を打診してきました。

あの織田殿と
軍事同盟か・・・

元康にとっては、かつて「人質としていた」ことがある織田家。

そして、松平家の永き歴史に渡って、常に緊張関係にあった隣の織田家。

そうだのう
・・・・・

27歳の信長に対して、まだ16歳だった元康。

超若造でしたが、小さな頃から「人質の境遇」が長かった元康。

そもそも、元康の記憶にある人生では、「ほとんどが織田か今川の人質」でした。

長きに渡る人質経験によって、若いながら、元康はすでに老練な思考力を持っていました。

よしっ!織田殿と
同盟を締結しよう!

今川とは縁切るので、
名前は徳川家康に変更!

こうして、思い切った大戦略に出た「徳川家康」と一気に変身した松平元康。

おそらく、この時は信長は、

とりあえず松平と同盟結んで
東を固めて、北へ!

と考えていたでしょう。

元康が織田家の人質だった時代に「信長と知り合っていて、遊んだ仲」という説もあります。(諸説あり)

信長の「とりあえず同盟」的姿勢に対して、家康は、

織田殿とは、原則として
ずっと同盟を結び続けよう!

という超長期同盟を目論んでいたでしょう。

短期的視点で同盟を考える大名が多い中、家康の「長い目」でみる超大戦略は際立っていました。

何事も
長期的視点が大事よ!

この視点こそが、家康が「最後に勝った」最大の理由だったでしょう。

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