連合艦隊「航空戦略の第一人者」草鹿龍之介の実像〜凄まじい勢いで成長した連合艦隊・空母を多数有した世界No.2海軍〜|草鹿龍之介1・能力・エピソード

前回は「第二次世界大戦における日本の「悪の権化」東條英機の実像〜超真面目な典型的日本人・憲兵隊による恐怖政治と「国家の空気」〜」の話でした。

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草鹿龍之介 第一航空艦隊参謀長(連合艦隊司令長官 別冊歴史読本 新人物往来社)
目次

凄まじい勢いで成長した連合艦隊:空母を多数有した世界No.2海軍

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第一航空艦隊旗艦 空母赤城(Wikipedia)

第二次世界大戦において、最終的に米海軍に大敗北を喫することになった日本海軍の連合艦隊。

第二次世界大戦・太平洋戦争末期には、重油が欠乏し、まともな戦略すら立てられずに敗北しました。

敗北したのは相手・敵である米海軍が「強すぎた」のであり、実は連合艦隊は超強力な存在でした。

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大英帝国 1921年(Wikipedia)

第二次世界大戦の頃、世界を圧する大帝国であった大英帝国は「海の王」でした。

1900年頃までは、大英帝国は文字通り「世界最強の国家」でした。

そして、この大英帝国の植民地から出発して凄まじい勢いで発展し続けた米国。

このため20世紀初頭の海軍は「米英中心」ですが、日本の海軍力は、かなり強力でした。

どうやら、最近の
JapanのNavy(海軍)は、かなり強力になったらしい・・・

確かに、妙に艦船が充実しているが、
我がUnited Kingdomの敵ではない!

「海軍の本場」である大英帝国には、昔から非常に強力な諜報部隊がいます。

世界中から情報を集めていた大英帝国には、日本海軍の急成長の情報が多数入っていました。

実は明治維新の頃までは「世界列強各国の海軍」とは比較にならないほど脆弱だった日本海軍。

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左上からH.Parkes英国公使、Matthew Perry米提督、Townsend Harris駐日米大使、Leon Roches駐日フランス帝国公使(Wikipedia)

Hello!
Japanの皆さん!

江戸時代末期の1853年〜1854年には、米国のペリー提督が来航しました。

我がUnited Statesと
同盟を結びましょう!

嫌なら、
Edoを砲撃しますよ!

この時、ペリーの艦隊に「抵抗する術がなかった」日本は、ペリーの恫喝に屈しました。

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左上から時計回りに、明治維新の元勲:木戸孝允、岩倉具視、大久保利通、西郷隆盛(Wikipedia)

この後、1868年に明治維新を迎えて、急速な欧化政策によって、強国に躍り出た大日本帝国(日本)。

日清戦争・日露戦争で勝利を収めた大日本帝国は、その海軍力をますます増強させました。

そして、空母を多数保有し「世界No.2海軍」となったのが、太平洋戦争初頭の日本でした。

連合艦隊の「空母航空艦隊の第一人者」草鹿龍之介の実像

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日米海軍艦船比較表 1941年(歴史人2021年8月号 ABCアーク)

第二次世界大戦は、当初は「欧州の戦争」がメインでした。

そして、日中戦争などアジアで戦争を繰り広げていた日本。

米国は表立って参戦することはありませんでしたが、「陸海軍ともに世界最強」の米国。

その米海軍と比較しても、連合艦隊は伍する存在まで急成長しました。(上記グラフ)

戦艦・駆逐艦・潜水艦の数は劣るものの、巡洋艦では同数、空母に至っては連合艦隊の方が上でした。

この頃は、ちょうど「戦艦から空母へ」の時代でした。

そのため、「空母・航空隊主軸の海軍戦力」の視点で考えれば「連合艦隊が世界最強」とも言えました。

この「戦艦から空母へ」の時代の狭間で勃発したのが、日米戦・太平洋戦争でした。

世界中の海軍では、まだまだ「戦艦主軸」の考えが根強かったのが現実であり、

まあ、空母は多数の航空隊を
持つから、強力な力を発揮しそうだ・・・

だが、航空隊が戦艦を
沈めることなんて、出来るのか?

確かにな・・・
戦艦の攻撃力と防御力が海戦を制するだろう・・・

世界中の海軍将兵は「戦艦主軸」の海戦を考えていました。

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山本五十六 連合艦隊司令長官(連合艦隊司令長官 別冊歴史読本 新人物往来社)

この中、異常に早い段階から「空母・航空隊に夢を見ていた」人物が山本五十六でした。

海軍省で航空技術部長、航空本部長(次官同等)、海軍次官を歴任し、空母・航空隊を育てた山本。

これからは、
空母・航空隊なのだ!

そして、連合艦隊の「空母航空隊の第一人者」となるのが草鹿龍之介でした。

私が連合艦隊の
「空母航空隊の第一人者」なのだ!

1892年に生まれた草鹿龍之介は、若い頃から大変優秀でした。

私は剣術もこなし、
勉学も一生懸命学んだのだ!

東大へとつながる第一高等学校(一高)にも合格した結果、海軍兵学校に次席の成績で入学した草鹿。

海軍兵学校卒業期名前専門役職
32山本 五十六航空連合艦隊司令長官
36南雲 忠一水雷第一航空艦隊司令長官
38三川軍一水雷第三戦隊司令官
40宇垣 纏大砲連合艦隊参謀長
40山口 多聞航空第二航空戦隊司令官
41草鹿 龍之介航空第一航空艦隊参謀長
42加来 止男航空飛龍艦長
連合艦隊幹部の専門・役職・海軍兵学校卒業期(1941年12月)

海軍兵学校41期生となった草鹿は、兵学校でも真面目に勉学を続け、14位で卒業しました。

日本海軍のエリートとなった草鹿は、1924年の32歳の頃に海軍大学校に入学し、

さらに己の
戦略・戦術理論を磨くのだ!

日本海軍・連合艦隊の「戦略・戦術の柱」となることを早期に決めた草鹿は、必死に学び続けました。

これからは
航空艦隊主軸ではないか・・・

草鹿が若き頃は「空母が登場したて」の時期で、空母航空艦隊の面影は全くありませんでした。

若き頃は、「空母航空隊がほとんどない」状況だったため、草鹿の海軍大学校での授業は、

草鹿先生の講義は
実戦的ではなく、「航空哲学」ですね・・・

と学生に言われる羽目となった草鹿。

なんの!これから
空母航空隊が主役となる・・・

そして、その主役をリードするのが
私なのだ・・・

つまり、私が連合艦隊の
中心となるのだ!

周囲の無理解の中、若き草鹿は歯を食いしばって、航空理論・戦略・戦術を学び続けたのでした。

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