前回は「「最後の勝利者」となった「忍耐の人」徳川家康の実像〜信長と家康の類まれなる超長期同盟・「長い目」で考える超大戦略〜」の話でした。

「今川家の一角」の運命しか見えなかった松平元康

三河の城主の生まれであった徳川家康は、初期は松平元康と名乗っていました。

私は、三河
土豪・松平家の嫡流である!
後に徳川幕府初代将軍となった家康に関しては、様々な脚色がされましたが、



我が松平家は、
守護や守護代の家柄ではないが・・・
松平家・徳川家は、元々は大した家柄ではありませんでした。



松平家は、我が今川家が
支配するのだ!
それに対して、駿河・遠江の二カ国の守護である今川家は、名門であり、



我が今川家は、
足利将軍家を継ぐ可能性がある家柄だ!
「足利家に後継者なき時は、吉良・今川家から」と言われていたこともあり、今川は超名門でした。



なんとか、我が
松平家を再興したいが・・・
若い頃から、人質生活が長かった元康には、一応「城主の子」として、側近がいました。
そして、若き松平元康をずっと支え続けたのが、酒井忠次や石川数正ら譜代の家臣たちでした。





元康様!
我らがおります!





元康様!
我らが支えます!
後にその際立った能力を見せた酒井忠次、石川数正の二人ですが、当時は単なる近習だったでしょう。
名前 | 生年 |
徳川 家康(松平 元康) | 1543年 |
酒井 忠次 | 1527年 |
石川 数正 | 1533年 |



我らが松平家には
酒井、石川らがいてくれるが・・・



なんと言っても、大した
軍勢もなく、財政力もない・・・
いわば「手足を縛られた状況」で今川家にいた家康は、



元康殿は、
我が今川が十分に処遇しますぞ!



・・・・・
そのまま「今川家の一角」の運命しか見えない運命でした。
当時、「今川帝国」とも言える勢力を築いていた今川家。
今川は、駿河・遠江・三河に磐石な地盤を築いていました。
戦国最強の「甲相駿三国同盟」:磐石の体制を強固に固めた今川家


さらに1554年に武田・北条と三国同盟を締結した今川家。



我が今川の体制は
磐石!
後に破綻してしまった「甲相駿三国同盟」は、理想の同盟でした。
様々な同盟があった戦国時代において、「甲相駿三国同盟」は戦国最強の同盟でした。


日本の歴史上、「三国同盟」というと、すぐに思いつくのが「日独伊三国同盟」です。
第二次世界大戦で枢軸国を形成した日独伊三国(軍事)同盟は、それなりに強力な体制でした。


そして、この日独伊三国同盟は、日本の視点から見れば「日独伊」ですが、



強力なGermanyに
JapanとItalyがくっついたか・・・
ヒトラー率いる、猛烈な勢いを持っていたドイツに、日本とイタリアが「くっついた」印象でした。
そして、ドイツとイタリアにとっては、まさに「近い国」であり、共同作戦が可能でした。
対して、大日本帝国は「ドイツ・イタリアと遠すぎる」位置にあり、とても共同作戦は無理でした。
当時は、ドイツの猛烈な勢いに対して、



ドイツの勢いに
乗り遅れるな!
「ドイツによる欧州全土の制覇」を現実視し、「遠い同盟」を強行した大日本帝国。


それに対して、今川・武田・北条の甲相駿三国同盟は、「お互いが接している」理想的同盟でした。
この甲相駿三国同盟を推進したのは、今川家の軍師でもあった太原雪斎と言われますが、



我が今川と武田・北条が
手を結ぶか・・・



うむ・・・これで我が今川帝国は
磐石となるな・・・
守護・守護代・国衆(地侍)出身 | 大名 |
守護 | 武田家・大友家・島津家・今川家・大内家 |
守護代 | 長尾家(上杉家)・朝倉家 |
国衆(地侍) | 三好家・織田家・徳川家・毛利家・北条家・(豊臣家) |
当時、武田も北条もかなりの力を持っていましたが、今川の方が石高は上でした。
さらに、格式において、武田は守護ながら「今川のやや下」であり、



我が武田は名門だが、
今川ほどではないが・・・
始祖・早雲が「政所執事・伊勢の家柄」という説もある北条は、せいぜい「伊勢の傍流」であり、



我が北条は、今川や武田よりも
家格は劣るかもしれんが・・・
甲相駿三国同盟は誰が見ても、「今川義元がトップ」でした。



我が今川は北と東に
強固な同盟を締結!



南に広がる海には
海運などを切り開く!



そして、残るは
西しかないのだ!
今川にとって、陸では「西」しか進む先はなく、「今川帝国の西の先端」に位置した松平家は、



我が松平家は、
今川の西の先鋒か・・・
完全に「今川帝国に組み込まれていた」のであり、



なんとか、今川家の中で
のし上がって行くか・・・
「今川家でのし上がる」以外に未来はなかった、のが当時の家康=松平元康の実情でした。