前回は「神風特別攻撃隊の「生みの親」と言われる大西瀧治郎の実像〜大西第一航空艦隊司令長官と敷島隊の出撃・神となった特攻隊員・大日本帝国海軍大幹部の意向と神風・及川古志郎と源田実〜」の話でした。

日清戦争の快勝と日露戦争:「格上の国家」だったロシア帝国

1891年に兵庫県で生まれた大西瀧治郎。
この前年の1890年には、大日本帝国憲法が施行されました。

我が大日本帝国は、
これから国家が発展してゆき・・・



やがては欧米と
肩を並べるのだ!
この1890年頃の大日本帝国において、国民たちは「国家が発展する」のを肌で感じていたはずです。



この俺も
大日本帝国に役立つ人材になる!
小さな頃から、比較的学業が得意で、優等生肌だった大西瀧治郎。


大西瀧治郎が物心つく3歳の頃であった1894年には、日清戦争が勃発。
長い歴史の間で、「アジアのボス」として君臨し続けてきた中国。


鎌倉時代には、中国大陸からモンゴル帝国が攻め寄せてきて、日本という国家の危機となりました。
モンゴル帝国と中国の王朝は、全く別の国家ですが、日本人にとっては「中国からの侵攻」でした。



長い間、アジアの
ボスであった中国(清国)を倒した!



これからは、
我が大日本帝国がアジアに君臨する!



我が大日本帝国が、
清国と戦争して大勝利した!
清国を容易く屈服させた大日本帝国は、上昇気流に乗り、大国ロシアと対峙しました。


極めて苦しい戦いであった日露戦争では、陸海軍ともに「圧倒的なパワー」を持つロシアが相手でした。
項目 | 大日本帝国 | ロシア帝国 | ロシア帝国/大日本帝国 |
人口(万人) | 4,600 | 12,000 | 2.6 |
現役兵力(万人) | 100 | 200 | 2.0 |
歳入(億円)(GDP) | 2.5 | 20 | 8.0 |
火砲(門) | 636 | 2,260 | 3.6 |
艦船(トン) | 25 | 80 | 3.2 |
石油産出量(万バレル) | 200 | 44,500 | 222 |
国力が「遥かに高かった」ロシア帝国に対して、大日本帝国の国力は、かなり貧弱でした。
日露戦争が勃発した1904年は明治維新から36年後で、ロシア帝国は「格上の国家」でした。



我が大日本帝国が、
ロシア帝国と戦うのか・・・
当時13歳で、現代の中学一年生頃だった大西少年もまた、戦慄したでしょう。
広瀬武夫を崇拝して帝国海軍軍人目指した大西瀧治郎


そして、大日本帝国史上、初めての大戦争となった日露戦争。
この頃は、欧州や米国などにおいて、戦争が多数勃発していた時代でしたが、



JapanとRussiaの
戦争は、凄まじいな・・・
世界初の「総力戦の戦い」となった日露戦争は、 「第0次世界大戦」とも呼ばれるほどの大戦争でした。



なんとか、
なんとかロシアを屈服させねば・・・



そのためには、ロシア陸軍に
出来るだけ打撃を与えなければ・・・
陸海軍ともに、大日本帝国を圧倒する力を有していたロシア帝国。



ロシアの艦隊は
強力だからのう・・・



なんとか、旅順にいる
ロシア艦隊を潰せないか・・・
本国のバルチック艦隊以外にも、旅順に強力な艦隊を有していたロシア海軍。
大日本帝国海軍の連合艦隊から見れば、「連合艦隊二つ分」ほどの強力な力を持っていました。


ここで登場したのが、ロシア駐在経験もありロシア語に堪能であった広瀬中佐でした。



私は、ロシアのことならば、
誰よりも良く知っています!



ロシア海軍を潰すためには、
旅順港を閉塞して・・・



ロシアの軍艦を
旅順湾内に閉じ込めましょう!
旅順港に在伯していた、強力なロシア艦隊に対して「旅順湾の日本海への出入り口を塞ぐ」大戦略でした。



私が率先して、
閉塞作戦を遂行します!
自ら率先して、「旅順閉塞作戦」を買って出た広瀬少佐。
しかし、状況は極めて厳しく、「敵の前で、敵を閉塞する」危険すぎる業務でした。



Japanの海軍が、
我らを閉じ込めようとしているな!



そうはさせるか!
皆殺しにしてやるわ!



うぐっ!
そして、ロシア海軍の放った砲弾を受けた広瀬少佐は、即死しました。



敵ではあったが、
我がRussiaをよく知り・・・



我がRussiaの
友であったHirose・・・
広瀬はロシア海軍に丁重に葬られ、その功績から中佐に進級しました。



広瀬中佐は
軍神だ!
そして、軍神となった広瀬武夫。
この文字通り「生命を賭けた戦い」は、多くの大日本帝国の国民(臣民)を鼓舞しました。



軍神広瀬武夫のように
俺もなりたい!



俺も帝国海軍に入って、
生命を賭けて戦う!
14歳の頃に、「軍神広瀬武夫」を目指すことを胸に決めた大西瀧治郎少年。
そして、広瀬と同様に帝国海軍のエリートとなるべく、勉強に励みました。


当時、「海軍エリート士官となる道」であった海軍兵学校(海兵)は極めて難関でした。



一生懸命勉強して、
海兵に合格だ!
優等生でもあった大西は、猛勉強して海兵40期に20位の成績で入学しました。
かなりの優等生であった大西滝治郎青年。



帝国のために、
帝国海軍のために!
そして、若き頃に「広瀬」という模範・ロールモデルを見出した大西瀧治郎。



俺も軍神目指して、
奮起してやるぞ!
そして、大西は、大東亜戦争末期に「多数の軍神を生み出す」立場になってゆきます。