前回は「神風特別攻撃隊の「生みの親」と言われる大西瀧治郎の実像〜大西第一航空艦隊司令長官と敷島隊の出撃・神となった特攻隊員・大日本帝国海軍大幹部の意向と神風・及川古志郎と源田実〜」の話でした。
連合艦隊の大栄光と凋落の顔・南雲忠一の実像:超優等生だった南雲
第二次世界大戦・太平洋戦争において、初期に猛烈な勢いで暴れ回った大日本帝国陸海軍。
陸海軍ともに、当事者である大日本帝国陸海軍軍人自身が驚いたであろう「猛烈すぎる勢い」でした。
中でも、20世紀に入ってから急速に力をつけてきた大日本帝国海軍の勢いは目覚ましいものでした。
そして、第二次世界大戦初期の「連合艦隊の大栄光の立役者」こそ南雲忠一と言って良いでしょう。
これは航空艦隊の「育ての親」であり、連合艦隊司令長官であった山本五十六の功績でもあります。
真珠湾奇襲攻撃の是非はあれども、とにかく空母航空隊を育て続けた山本。
そして、その空母航空隊を率いて真珠湾奇襲攻撃から太平洋〜インド洋で暴れ回った南雲。
1887年に生まれた南雲忠一は、海軍兵学校を8番の成績で卒業(191人中)。
私はかなりの努力家であり、
優等生だったのだ!
当時は日本中から優秀な若者たちが陸海軍軍人を目指して、陸軍士官学校・海軍兵学校は大人気でした。
東大など旧帝大はありましたが、
僕は海軍軍人になって、
大日本帝国を守るのだ!
当時の若者たちにとって、海軍兵学校のレベルは東大と同等か、それ以上だったでしょう。
この海軍兵学校を、1908年に優秀な成績で卒業した南雲。
3年前の1905年には、日本海海戦が起こりました。
「日本より巨大だったロシア」のバルチック艦隊を、連合艦隊が完膚なきまでに叩き潰した時代。
その「ロシアを叩き潰した大原動力」の海軍。
おそらく、南雲が海軍兵学校の学生だった頃は、陸軍よりも海軍の方が人気があったのでしょう。
この超優等生であった南雲は、海軍において最もエリートコースをひたむきに走り続けました。
そして、超優等生であったからこそハンモックナンバーが高く、南雲の運命を左右しました。
航空のド素人から第一航空艦隊司令長官へ
若い頃は豪気で酒豪であった南雲忠一は、海軍士官の中でも人気が高かった猛将でした。
俺は水雷専門で、
巡洋艦・駆逐艦の専門家だ!
そして、俺は
艦船の操艦にも自信がある!
水雷の大専門家であり、操艦にも自信があった南雲は「連合艦隊の宝」のような存在でした。
そして、1941年、連合艦隊は米海軍との戦争に向けて具体的な準備を始めました。
「連合艦隊の顔」であった山本五十六長官は、
空母機動部隊を
編成し、長官を決める!
その航空艦隊長官は
「機動部隊生みの親」小沢が良いだろう!
世界初の航空艦隊編成を試みた山本は、当然その長官に「航空艦隊のプロ」を据えようとしました。
この山本の発想に対して、人事権を握る及川古志郎海軍大臣は、
航空艦隊の長官が
小沢?
だめだ!
南雲忠一だ!
ハンモックナンバーと軍令承行令から、航空艦隊長官は南雲に決定しました。
海軍兵学校卒業期 | 名前 | 専門 | 役職 |
32 | 山本 五十六 | 航空 | 連合艦隊司令長官 |
36 | 南雲 忠一 | 水雷 | 第一航空艦隊司令長官 |
37 | 小沢 治三郎 | 航空 | 南遣艦隊司令長官 |
40 | 山口 多聞 | 航空 | 第二航空戦隊司令官 |
41 | 草鹿 龍之介 | 航空 | 第一航空艦隊参謀長 |
俺が航空艦隊の
長官?
この人事に最も驚いたのは、おそらく南雲忠一本人だったでしょう。
後世から見れば、この頃は「戦艦から空母へ」の流れとなった世界の海戦。
そうは言っても、当時「空母中心」の発想を持っていた将官は世界中見渡しても極めて少数でした。
さらに、空母四隻をまとめる前代未聞の「大空母航空艦隊」編成にあたり、
俺は航空や空母のことは
全く分からんが・・・
「航空ド素人」の南雲が長官になりました。
これは、南雲の戦歴・年齢がちょうどよく、卒業席次が極めて高かったことが大きなポイントでした。
当時の大日本帝国海軍において、「最も花形の長官」となるのは「南雲が最適」であったのも事実でした。
この「南雲を外す人事はない」ことを理解した山本長官は、
やむを得ん・・・
南雲に任せよう・・・
人事権を持たないために、南雲第一航空艦隊司令長官を追認せざるを得ませんでした。
ならば、航空の
強力な参謀をつけよう・・・
航空に関する
戦略・戦術なら、海軍一の自信あり!
そして、当時「航空艦隊の第一人者」と目されていた草鹿龍之介が第一航空艦隊参謀長となりました。
真珠湾とミッドウェイからサイパンへの道のり
1941年4月に第一航空艦隊司令長官となった南雲。
当初、空母四隻から、真珠湾奇襲攻撃の際には空母六隻という空前の大艦隊となりました。
真珠湾奇襲攻撃なんて、
無茶苦茶だ!
当初から、真珠湾奇襲攻撃に大反対だった南雲。
私も難しいと
考えます・・・
補佐役である草鹿参謀長も反対しました。
嫌ならば、即刻
辞表を出せ!
ところが、二人とも山本長官から一喝され、さらに、
我が大日本帝国海軍のため、
これは我が信念である!
ここまで山本長官に言われては「断れる大日本帝国海軍軍人」は存在しませんでした。
なんとか
やってみましょう・・・
そして、遠い真珠湾に奇襲攻撃に向かった第一航空艦隊は「大戦果」を挙げました。
なぜ、
空母はいなかった・・・
米国が事前に察知していたこともあり空母を撃ち漏らしたものの、日本海軍の被害は軽微となった奇襲攻撃。
これは、南雲長官の統率力に追うところが大きく、確かに南雲は名将でした。
よしっ!これで我が
南雲機動部隊が暴れ回ってやるわ!
自信を持った南雲は、太平洋からインド洋にかけて、猛烈な攻撃をかけ続けました。
ミッドウェイを
攻撃する!
そして、真珠湾に続き、ミッドウェイ攻撃を強行した山本長官。
ところが、1942年6月のミッドウェイ海戦で「空母四隻喪失」という前代未聞の大敗北を喫した南雲。
まさか・・・
こんなことになるとは・・・
本来は、ここで南雲と草鹿は「空母機動部隊の指揮官クビ」のはずですが、
米海軍に
復讐してみせる!
と山本長官に懇願した草鹿参謀長。
そもそも、「作戦を強行」した山本長官にも敗北の責任があることは明確であり、
引き続き、
航空艦隊指揮を任せよう・・・
はっ・・・
この時の南雲の真意は不明です。
本当は「別の」というより「本来の」水雷に戻るのが良かったのかも知れません。
第一航空艦隊から第三艦隊へと名称を変更しただけで、引き続き航空艦隊を率いた南雲と草鹿。
米海軍の空母ホーネットを撃沈し、
これで、「ミッドウェイの仇」は
果たしたぞ!
その後、佐世保鎮守府司令長官などの閑職に回った南雲忠一。
ミッドウェイ以降、連合艦隊は米海軍に押され続けていました。
・・・・・
敗色が濃くなった1944年3月、南雲は中部太平洋方面艦隊司令長官としてサイパンに向かいました。
このサイパンが
俺の死に場所か・・・
当初、「第一」航空艦隊司令長官であった南雲は「第十四」航空艦隊司令長官を兼ねていました。
そして、連合艦隊の支援も満足に受けられない中、米海軍の総攻撃を受けた南雲は、
ここで
自決しよう・・・
自決したとも、米軍に突撃して戦死したとも伝わります。
南雲忠一の人生は、連合艦隊の「巨大な栄光と凋落の顔」と言えるでしょう。
次回は上記リンクです。