自ら家臣の能力と忠誠心を見極めた織田信長〜新参者ばかりの織田四天王・家臣を譜代でガッチリ固めた武田信玄・鎌倉以来の守護の血〜|織田信長14・人物像・エピソード

前回は「織田信長と織田四天王の圧倒的能力〜異質な超強力織田家抜擢軍団・出来星大名だった織田家・強力なパワー有した戦国時代の守護大名〜」の話でした。

新歴史紀行
戦国大名 織田信長(歴史群像シリーズ 図説・戦国武将118 学研)
目次

自ら家臣の能力と忠誠心を見極めた織田信長:新参者ばかりの織田四天王

New Historical Voyage
織田信長と織田四天王:柴田勝家、明智光秀、羽柴秀吉、滝川一益(歴史群像シリーズ 図説・戦国武将118 学研、Wikipedia)

織田四天王と呼ばれる明智光秀、羽柴秀吉、柴田勝家、滝川一益の四名。

この四名の能力は、軍事能力、政治能力、知謀などにおいて、群を抜いていました。

そして、地味ながら林秀貞、佐久間信盛、丹羽長秀などの譜代の重臣が織田家の核となっていました。

武田四天王や徳川四天王なども強力ですが、織田四天王には、他の家では見られない異質な点があります。

名前織田家との関係生年(一部諸説あり)
織田信長1534年
林秀貞譜代1513年
柴田勝家譜代1522年
滝川一益新参1525年
明智光秀新参1528年
佐久間信盛譜代1528年
丹羽長秀譜代1535年
羽柴秀吉新参1537年
織田信長と織田家重臣の生年

それは、「織田四天王の四名のうち、三名が新参者」である点です。

織田信長

譜代の林、佐久間、柴田も
大事だが・・・

織田信長

この戦国の時代を
制覇するためには、特別な能力が必要だ!

織田信長

その能力は、譜代や新参者に
限らず、この信長自らが見定める!

そして、新参者の一益、光秀、秀吉のいずれもが、大きな特徴があります。

彼ら三名全員が「新参者に留まらず、出身すら不明」である点が重要です。

滝川一益

私は甲賀出身ですが、
詳しい家柄は不明です・・・

明智光秀

私は美濃の明智城に
連なるものですが、はっきりしたことは・・・

羽柴秀吉

私は、農民の出自ですが、
信長様に尽くします!

「ほとんど前歴が不明」であることは、生命を賭けた戦国時代では信用性に問題がありました。

いくら能力が高くても、裏切る可能性もあり、場合によっては「他家の諜者」である可能性もありました。

自分の家の譜代の家臣であれば、身元が明確であり「自家への忠誠心」がある程度見込めました。

そのため、各地の大名や城主たちにとって「譜代は安心」でした。

それが、新参者の場合、「他家の諜者」である可能性も相当程度あり、

他家の諜者S

ふっふっふ・・・
殿を信用させた・・・

他家の諜者S

内部の家の情報を
我が殿に流し・・・

他家の諜者S

ついでに、
この家の内情を撹乱してやろうか・・・

自家の情報が筒抜けになり、自軍の撹乱などをされる可能性がありました。

織田信長

我が織田家への忠誠心は、
この信長自身が判断する!

織田信長

織田への忠誠、というよりも
この信長への忠誠を誓え!

家臣を譜代でガッチリ固めた武田信玄:鎌倉以来の守護の血

新歴史紀行
武田四天王:左上から時計回りに山県昌景、高坂昌信、内藤昌豊、馬場信春(Wikipedia)

例えば、武田四天王は全員が「ほぼ譜代」であり、

武田信玄

山県昌景は、長男・義信と
共に反乱を企んだ飯富虎昌の弟・・・

武田家の譜代名門の飯富家は、信玄の長男・義信と共に「反乱に加担した」罪を背負って切腹しました。

武田信玄

だが、元々は武田譜代の
飯富家であり、能力もある・・・

武田信玄

昌景よ・・・
山県家を継いで、ワシに尽くせ!

山県昌景

ははっ!
この飯富昌景、山県昌景となり、武田に尽くします!

そもそも、武田義信の謀反説は諸説あり、確かなことは不明です。

武田義信

なぜ、父上は
我が妻の実家・今川家との同盟を切るのですか?

武田義信

なぜ、
そんな非道を考えるのですか?

武田信玄の長男・義信は、妻の実家の今川家との同盟破棄に向かった信玄が許せませんでした。

武田義信

ならば・・・
叛逆して父を葬るまで!

「裏切りは日常茶飯事」とい言えども、義信の方が正常であり、信玄が異常でした。

この結果、義信の最側近であった飯富虎昌は責任を取りましたが、「長男の最側近」は超譜代です。

そもそも諸説ある義信謀反説を考慮すると、

武田信玄

超譜代の家臣であり
軍事力が高い山県昌景は武田の柱・・・

後に、信玄最後にして決死の西上作戦では、山県昌景は「別働隊の総司令官」となりました。

武田信玄

なんと言っても、譜代でなければ、
信用が出来ん!

「甲斐守護」という名門の立場ゆえ、比較的、保守的な発想だった武田信玄。

信玄は、生涯「譜代中心」の発想が抜けませんでした。

守護・守護代・国衆(地侍)出身大名
守護武田家・大友家・島津家・今川家・大内家
守護代長尾家(上杉家)・朝倉家
国衆(地侍)三好家・織田家・徳川家・毛利家・北条家・(豊臣家)
戦国期の大名の家柄:守護・守護代・国衆(地侍)
武田信玄

我が家は
甲斐守護なのだ!

鎌倉時代以来の超名門であった甲斐守護・武田家の血が、信玄を保守的にしたのでしょう。

織田信長

我が織田家は、
守護代ですらない!

織田信長

だから、家臣団も
それほど大規模ではない・・・

織田信長

我が織田家が強力に
なってゆくには、家臣団を大幅増強せねば!

その点、守護代ですらなく、「尾張守護代の家老」という武田家から「二ランク下」だった織田家。

「家柄の低さ」を逆手に取って、信長は発想を広げてゆきました。

そして、若き頃から「守護出身の戦国大名とは見ている世界が違った」信長。

新歴史紀行
桶狭間の戦い(Wikipedia 歌川豊宣画)

この信長の革新性を考える時、武田同様の「守護出身の名家」今川義元。

今川義元

守護代ですらない、
格下の織田家如きに・・・

「守護の身分」にがんじがらめであった義元が、信長に大敗北したのは当然の事だったでしょう。

新歴史紀行

この記事が気に入ったら
フォローしてね!

目次