「連合艦隊の超有望提督」だった南雲忠一〜水雷と操艦の超達人・極めて優秀な豪傑だった若き南雲・日清戦争と日露戦争での海軍〜|南雲忠一2・能力・エピソード

前回は「連合艦隊の大栄光と凋落の顔・南雲忠一の実像〜航空のド素人から第一航空艦隊司令長官へ・超優等生だった南雲・真珠湾とミッドウェイからサイパンへの道のり〜」の話でした。

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南雲忠一 第一航空艦隊司令長官(連合艦隊司令長官 別冊歴史読本 新人物往来社)
目次

極めて優秀な豪傑だった若き南雲:日清戦争と日露戦争での海軍

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大日本帝国憲法発布(Wikipedia)

1887年に生まれた南雲忠一(なぐも ちゅういち)。

南雲が2歳だった1889年に大日本帝国が公布されました。

そして、翌1890年に大日本帝国憲法は施行され、我が国初の「欧米的憲法」が成立しました。

徳川幕府の時代から明治新政府の時代となって20年余り。

当時の大日本帝国では、「国家が成長している」感覚を多くの国民が共有していたでしょう。

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日清戦争(Wikipedia)

南雲が7歳だった1894年には、日清戦争が勃発しました。

南雲忠一(少年)

憲法が施行されて、
次は中国と戦争だ!

「眠れる獅子」と呼ばれた大国・清との決戦は、アジアの盟主目指す大日本帝国の悲願でした。

古来から、巨大国家中国の大きな影響を受け続けてきた日本。

実際、アジアの歴史は「中国による冊封体制の歴史」とも言える側面がありました。

日本軍将兵

清(中国)に
なんとしても勝つのだ!

そして、「アジアの盟主」であった清を軽々と倒して、快勝した大日本帝国。

南雲忠一(少年)

我が国の海軍は
とっても強いぞ!

この大日本帝国が発展してゆく空気に包まれた中、年少・少年期を過ごした南雲。

明治維新成立時には欧米と比して「弱小海軍」でしたが、この時には「強い海軍」が奮戦しました。

この「海軍の力」と「海に囲まれた大日本帝国を海軍が守る姿」を目の当たりにした南雲少年は、

南雲忠一(少年)

僕も海軍将校になって
大日本帝国に尽くすのだ!

このように考えて、若い頃から猛勉強を続けた南雲。

南雲忠一(少年)

海兵目指して
一生懸命勉強だ!

そして、当時「最難関大学」だった海兵に見事良い成績で合格した南雲。

当時、東大と同格の立場であった海兵・陸士(陸軍士官学校)の生徒は非常に優秀でした。

頭脳だけでなく身体も健全である必要であった海兵・陸士は、見方によっては「東大より難関」でした。

「成績が先任を決定する」軍令承行令が、実際いつから施行されたかは不明な点があります。

おそらく南雲が若い頃にはすでに、「軍令承行令の空気」はあったでしょう。

南雲忠一(青年)

優秀な成績で卒業して、
海軍の中枢部で活躍するのだ!

「卒業時の成績が海軍内のポジションに強い影響を与える」ため、皆必死に学びました。

そして南雲青年もまた、懸命に学んだのでした。

「連合艦隊の超有望提督」だった南雲忠一:水雷と操艦の超達人

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戦艦三笠に座乗する東郷平八郎連合艦隊司令長官(Wikipedia)

南雲が海兵在学中の1905年には、日本海海戦が勃発しました。

ここで「信じられないような快勝」を世界に見せつけた大日本帝国海軍。

南雲忠一(青年)

俺も連合艦隊で
司令官や艦長になってみせる!

日清戦争に続いて、日露戦争で一気に「後進国から世界の強国」へと躍り出た大日本帝国。

おそらく、当時の大日本帝国国民にとっては、

大日本帝国国民

海兵や陸士(陸軍士官学校)で学んで、
お国のために!

このような空気が強かったでしょう。

そして、南雲は海軍兵学校を8番の成績で卒業しました(191人中)。

南雲忠一(青年)

海兵を
8位卒業だ!

「海兵を10位以内で卒業」は、当時の青年の中で極めて優秀な方です。

海兵卒業後すぐに少尉となった南雲青年は、勇んで海軍で懸命に働きました。

南雲忠一(青年)

私は水雷戦隊を
率いるのだ!

大艦巨砲主義だった当時は、「砲術」が花形でした。

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左上から時計回りに、永野修身 軍令部総長、山本五十六 連合艦隊司令長官、山口多聞 第二航空戦隊司令官、南雲忠一 第一航空艦隊司令長官(連合艦隊司令長官 別冊歴史読本 新人物往来社、Wikipedia)

後に連合艦隊司令長官となる山本五十六もまた、若き頃は砲術の専門家に進み、

山本五十六

これからは
航空機と空母の時代だ!

山本は途中で、航空派に軸を移動しました。

山本や南雲が若い頃は、そもそも「航空」という概念がほぼなかった時代でした。

そして、南雲は「水雷の超専門家」となり、

南雲忠一

水雷ならば、
私は第一人者だ!

自他ともに認める「水雷の第一人者」へと成長した南雲。

さらに、軍艦と相性が良かったのか懸命な努力が実を結んだのか、操艦も極めて上手かった南雲。

南雲忠一

私は操艦も
かなり自信がある!

南雲忠一

戦艦でも巡洋艦でも
駆逐艦でも、上手に操艦出来る!

海軍兵学校卒業期名前専門役職
28永野 修身大砲軍令部総長
32山本 五十六航空(大砲)連合艦隊司令長官
35近藤 信竹大砲第二艦隊司令長官
36南雲 忠一水雷第一航空艦隊司令長官
37小沢 治三郎航空南遣艦隊司令長官
40宇垣 纏大砲連合艦隊参謀長
40山口 多聞航空第二航空戦隊司令官
41草鹿 龍之介航空第一航空艦隊参謀長
連合艦隊幹部の専門・役職・海軍兵学校卒業期(1941年9月)

南雲前後の代の対米戦開戦時の軍令部・連合艦隊大幹部では、水雷派は少数派でした。

時代は「戦艦から空母へ」の流れで、まだまだ「戦艦派=大砲派」が中心でした。

この中、「水雷の超プロ」で「操艦の達人」でもあった南雲。

永野修身

水雷ならば、
南雲の右に出るものはおらんな・・・

永野修身

そして、操艦の技術に対する信頼と
あの堂々とした雰囲気・・・

永野修身

南雲には大艦隊が
任せられるな・・・

そして、南雲は「連合艦隊の超有望提督」へと成長してゆきました。

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