忍武神・滝川一益の大奮闘〜強敵武田を討滅・戦国抜群の能力を有した織田信長と織田四天王・「比較的低い評価」の滝川一益に対する名称〜|滝川一益14・評価・軍事能力・エピソード

前回は「「撤退の超名人・織田信長ならば」と考えた滝川一益〜「金ヶ崎の撤退戦」殿軍を指揮した羽柴秀吉・幻の超仲良し「柴田勝家軍+滝川一益軍」の共同作戦〜」の話でした。

滝川 一益(歴史群像シリーズ 図説・戦国武将118 学研)
目次

「比較的低い評価」の滝川一益に対する名称

新歴史紀行
1568年の織田家勢力図(別冊歴史人 「戦国武将の全国勢力変遷地図」KKベストセラーズ)

滝川一益に関して、改めて考えている中で、彼に対する呼称を考えてきました。

織田家宿老として、織田家勃興期からずっと各地で転戦してきた滝川一益。

「進むも滝川、退くも滝川」と言われた滝川は、優れた将軍と考えられます。

新歴史紀行では戦国時代の武将を取り上げ、「〜神」「〜将」をいう名前を独自につけています。

立花道雪は「武雷神」。

柴田勝家は「飛武神」。

竹中重治は「智清将」です。

取り上げる武将は、皆が独特の優れた能力を持っています。

優れた武将には「〜将」と名づけ、ある一定のレベルを超えると「〜神」と考えます。

そして、滝川一益。

あまり評価が高くない一益。

「信長の野望」シリーズでも、「天下統一」シリーズでも、「A級だが、決してS級ではない」一益。

普通に考えると「〜将」が、妥当でしょう。

戦国抜群の能力を有した織田信長と織田四天王

織田四天王(歴史群像シリーズ 図説・戦国武将118 学研)

しかし、滝川一益を評価する際には、どうしても他の織田四天王(諸説あり)と比較になります。

すなわち、超名将であった羽柴秀吉・明智光秀・柴田勝家との比較となります。

そして、主人である織田信長。

戦国大名 織田信長(歴史群像シリーズ 図説・戦国武将118 学研)

武田信玄も上杉謙信も「超一流」ですが、織田信長は彼らとは、また「別次元」の人物でしょう。

なんと言っても、織田信長は軍事能力・政治能力・知謀能力全てずば抜けています。

名前生年(一部諸説あり)
織田信長1534年
林秀貞1513年
柴田勝家1522年
滝川一益1525年
明智光秀1528年
佐久間信盛1528年
丹羽長秀1535年
羽柴秀吉1537年
織田信長と織田家重臣の生年

「信長の野望」シリーズ、「天下統一」シリーズなどの能力は「ゲームに過ぎない」かもしれません。

とは言っても、専門の方達が一生懸命、各武将たちを採点して能力づけています。

そのため、「ゲームの能力値はある程度の信憑性がある」と考えます。

武田四天王(歴史群像シリーズ 図説・戦国武将118 学研)

「信長の野望」シリーズでも「天下統一」シリーズにおいても、武田軍の能力が非常に高いです。

中でも山県昌景は、とびきりの軍事能力を与えられています。

これは、のちに滅びた武田家に対する同情票も多く影響しているでしょう。

いわば「判官贔屓」的な面もあります。

そして、滝川一益の軍事力などの評価です。

ゲームでの「能力値」は、「名将であっても超名将ではない」評価です。

今回、さまざま調べた上で、やはり彼は「S級である」という結論に至りました。

忍武神・滝川一益の大奮闘:強敵武田を討滅

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戦国大名 武田勝頼(歴史群像シリーズ 図説・戦国武将118 学研)

そして、「忍武神」の呼称を与えたいと思います。

由来は、滝川が「忍びの出身」(諸説あり)という説があることが一つ。

そして、非常に「耐え忍ぶ力」に長けているからです。

「調略がメイン」と考えられてきた滝川ですが、やはり彼は「武の人」なのです。

「長篠の合戦で致命傷を受けた」と後世考えられている武田家。

山県昌景・馬場信春・内藤昌豊たちの名称と優れた軍勢が一気に消えてしまいました。

ところが、その後も武田勝頼は積極的に合戦を展開し、

父・信玄の時の
版図を超えたぜ!

なんと「武田家最大版図」を築き上げた勝頼。

そして、1582年の織田政権末期に信長が警戒し続けた「武の超名門」武田家を叩き潰しました。

我が武田が
滅亡するとは・・・

形式的には信長の長男・信忠が総司令官ですが、滝川は事実上の司令長官でした。

武田を
侮るな!

結果的に「織田家の楽勝」であった武田殲滅戦には、信長は「かなり警戒していた」のでした。

武田は
他の大名とは全然違うのだ!

よいかっ!
信忠は血気盛んだ・・・

信忠の安全第一で、
武田を叩き潰せ!

ははっ!
お任せを!

そして、最後に関東管領格となって関東鎮撫役となり、奥州への押さえも任されます。

どうしても、羽柴・明智・柴田と比べてしまう滝川。

それは、特に羽柴・明智が「優れ過ぎている」のです。

そして、末期には2万近い軍勢を指揮します。

2万という軍勢を指揮する能力は、なかなか持てないでしょう。

山県昌景は西上作戦の際に、9,000〜12,000人程度を指揮しました。

それとて「信玄の別働隊」という扱いです。

自ら2万の大軍を率いて、5万という大軍勢の北条と戦うに至る、滝川一益。

彼を「超一級の将軍」と評価して、「忍武神・滝川一益」の話を続けたいと思います。

新歴史紀行

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