大内戦・西南戦争の巨大な爪痕〜明治維新の総決算・徳川に最後まで抵抗した超名門島津家・関ヶ原の戦いの島津家と熊本城〜|西南戦争3・エピソード

前回は「維新の嵐から西南戦争への道〜「維新の四傑」の死と薩摩・西南戦争の銃痕・血塗られた歴史の痕跡を体験すること〜」の話でした。

目次

徳川に最後まで抵抗した超名門島津家

戦国大名 島津義弘(図説・戦国武将118 学研)

戦国時代に九州で暴れ回った島津家。

我が薩摩家は
戦国最強!

猛烈な勢いで九州を席巻し、一時は「九州全土占領間近」までゆきました。

新歴史紀行
1586年頃の九州勢力図(歴史人2020年11月号 KKベストセラーズ)

ところが、中央で勢力を急速に伸ばした豊臣政権と戦い、薩摩・大隈二カ国となった島津。

そもそも、「素性定かではない」というより「素性がない」秀吉と島津家は比較になりません。

我が島津家は、
鎌倉時代以来の超名門!

鎌倉幕府の時代から、薩摩の守護であった島津家。

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左上から時計回りに、戦国大名 織田信長、徳川家康、上杉謙信、武田信玄(歴史群像シリーズ 図説・戦国武将118 学研、Wikipedia)

この点では、武田家が辛うじて同格であり、織田家・上杉家・徳川家は大きく見劣りがするほど高い家柄でした。

大変な名門であり、強力な軍事力を有し、大量の鉄砲を持っていた島津家。

豊臣家に敗北したとはいえ、戦国時代からずっと強い光を放ち続けていました。

関ヶ原の戦いの島津家と熊本城

徳川幕府初代将軍 徳川家康(Wikipedia)

関ヶ原の戦いで、徳川に楯突いた島津家。

当然のことながら、一時は取り潰しの対象となりました。

西軍についた島津は
取り潰し!

ところが、薩摩・大隅の二カ国で防備を固め、徳川幕府を脅した島津家。

島津を敵に回したら、
大変なことになりますよ!

おのれ、島津め・・・
島津を取り潰してやりたいが・・・

島津は強い、
というか強すぎる・・・

しかも、薩摩は遠い、
というか遠すぎる・・・

我が島津を攻めるならば、
大量の徳川軍をあの世に道連れにするごわす!

さらに、島津は明国との貿易船を鎮めるなどして、徳川を威嚇し続けました。

島津と戦うなら、
明などとの貿易は全部ご破算ごわす!

・・・・・

ここに至り、ついに家康も断念しました。

ここは、
やむを得ない・・・

しぶしぶ、家康は島津家を許します。

島津家は「全くの減封なし」という、異例の対処でした。

戦国大名 加藤清正(Wikipedia)

その後、肥後に拠点を持つ加藤清正が、「対島津」の拠点・熊本城を築城しました。

いざ、豊臣と
徳川が戦ったら・・・

秀頼様を熊本城に
迎えよう・・・

こうして、築城の名手・加藤清正が心血注いで築城したのが熊本城でした。

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熊本城(新歴史紀行)

こうして、一度は「九州の王」となった由緒正しい島津家を「薩摩に閉じ込める」役を果たしたのが熊本城でした。

その後、明治政府によって「熊本鎮台」が置かれた熊本城。

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明治新政府の六鎮台(新歴史紀行)

当時、日本全国には六鎮台しかなく、その「六鎮台=六大軍事拠点の一つ」が熊本城でした。

大内戦・西南戦争の巨大な爪痕:明治維新の総決算

陸軍大将 西郷隆盛(国立国会図書館)

薩摩藩にとって、長年の仇敵のような存在であった熊本城。

1877年には不平士族に押されるように、ただ一人の現陸軍大将であった西郷隆盛が反乱を起こしました。

新政府のやり方は
好かん!

まずは
熊本城を落とす!

私学校跡地(新歴史紀行)

政府軍に対して蜂起した西郷軍が熊本城を目指したのは、当時の歴史背景を考えると当然でした。

薩摩藩士にとっては、「関ヶ原以来、薩摩を閉じ込める役を果たしてきた憎き熊本城」でした。

おいどんが行けば、
熊本城は開城して味方につく。

西郷は、こんな観測すら持っていたと伝わります。

熊本鎮台司令長官 谷干城(Wikipedia)

熊本城では、旧土佐藩士の谷干城が踏ん張り、当時まだ若かった児玉源太郎も参謀の立場で戦いました。

西郷さんは、
昔同志だったが・・・

結局、西郷軍は熊本城を落とすことは出来ず、緒戦の戦いから終始、物量豊かな政府軍に押され続けました。

今は、
敵と味方!

我が政府軍の
軍事力を見せつけよ!

当時の国内では比類ない猛烈に勇敢な薩摩軍に対して、政府軍はかなり手を焼いたのです。

西南戦争の銃弾痕(新歴史紀行)

白兵戦では最強の薩摩兵に対して、剣術の力量に優れた戊辰戦争で恨みが積もっている旧会津藩の藩士。

旧会津藩士は、政府軍によって組織化されて、この西南戦争では、

おのれ!
薩摩め!

戊辰の恨みだ!
薩摩を皆殺しにせよ!

と旧会津藩士たちの抜刀隊は、最強の旧薩摩藩士に斬りかかりました。

圧倒的な物量の差の中、徐々に押された薩摩軍。

最後は薩摩に戻り、城山に籠って戦いました。

西南戦争の銃弾痕(新歴史紀行)

おそらくは、この頃の「薩摩軍の最後の戦い」の中で猛烈な銃撃戦が行われたのでしょう。

もう、
ここらでよか・・・

最後に西郷軍は城山で総攻撃を受け、西郷隆盛は自決しました。

西郷軍政府軍
兵力(人)約30,000名約90,000名
戦死者(人)約6,800名約6,400名
西南戦争の兵力と戦死者数

西郷軍・政府軍共に6,400〜6,800名ほどの死者を出し、合計で13,200名ほどが戦死した大きな内戦となりました。

その銃撃の銃弾痕が街中に残っている鹿児島の中央市街地。

このような熾烈な歴史、血塗られた歴史を感じられる史跡です。

アクセスもとても良いので、ぜひ訪れてみてください。

新歴史紀行

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