羽柴家の水軍の要を目指す加藤嘉明〜小早川隆景の強力な水軍・「賤ヶ岳七本槍」の一人から羽柴家の要へ・羽柴家の増強を急ぐ秀吉の思惑〜|松山城のたそがれ5・四国の歴史

前回は「本能寺の変でさらに開けた加藤嘉明の運命〜三木城攻撃の一手の大将へ・「賤ヶ岳七本槍」の一人・加藤清正や福島正則との競争〜」の話でした。

目次

「賤ヶ岳七本槍」の一人から羽柴家の要へ

松山城(新歴史紀行)

朴訥、そして質実剛健を絵に描いたような城である松山城。

現存12天守

・姫路城(兵庫県姫路市)

・彦根城(滋賀県彦根市)

・犬山城(愛知県犬山市)

・松江城(島根県松江市)

・松本城(長野県松本市)

・丸亀城(香川県丸亀市)

・丸岡城(福井県坂井市)

・宇和島城(愛媛県宇和島市)

・備中松山城(岡山県高梁市)

・高知城(高知県高知市)

・弘前城(青森県弘前市)

・松山城(愛媛県松山市)

姫路城(新歴史紀行)

姫路城などの方が美しく、見栄えがしますが「戦国時代の城」と考えるとき、松山城はとても味があります。

なんとも言えない「戦国武将の深み」が感じられる松山城。

この松山城を築いたのは、羽柴秀吉の家臣であった加藤嘉明でした。

羽柴家家臣 加藤嘉明(Wikipedia)

私は13歳の時から、
秀吉様に仕えている!

1563年生まれで、1575〜76年ごろから秀吉に仕え始めた加藤嘉明。

その実直な性格と卓抜した武勇で、着実に成果を上げ続けました。

我が武勇に自信あり!
羽柴家の柱の一つだ!

そして、羽柴家になくてはならない存在となった加藤嘉明。

織田家重臣 柴田勝家と羽柴秀吉(歴史群像シリーズ 図説・戦国武将118 学研)

本能寺の変で、信長が横死した後、光秀を討った秀吉。

明智光秀との頂上決戦となった山崎の戦いでも、加藤嘉明は奮戦しました。

秀吉様のために、
光秀を討つのだ!

光秀を倒した後は、織田家筆頭家老であった柴田勝家と合戦になりました。

猿(秀吉)のくせに、
でかい顔しすぎだ!

権六を倒して
天下を獲るのだ!

賤ヶ岳の戦いで、柴田勝家と羽柴秀吉の頂上決戦となりました。

1582年の明智光秀との頂上決戦に続き、翌1583年には柴田勝家との頂上決戦と、「頂上決戦が続いた」秀吉。

新歴史紀行
織田四天王:左上から時計回りに柴田勝家、明智光秀、羽柴秀吉、滝川一益(歴史群像シリーズ 図説・戦国武将118 学研、Wikipedia)

織田家の覇業を支えた織田四天王が、互いに頂上決戦を続ける構図となったのは、ある意味必然でした。

次は
柴田を倒せ!

大いに勇躍して、「七本槍の一人」になった加藤嘉明。

ついに「羽柴家のトップ七人の一人」に
なったぞ!

「賤ヶ岳七本槍の一人」となった加藤嘉明は、羽柴家の要になりました。

羽柴家の増強を急ぐ秀吉の思惑

戦国大名 羽柴秀吉(歴史群像シリーズ 図説・戦国武将118 学研)

賤ヶ岳の戦いで柴田勝家を破った秀吉は「日の出の勢い」となりました。

もはや、私が信長様の
跡を継いで、天下を治めるのだ!

織田信長の嫡男・信忠も本能寺で討たれましたが、次男・信雄、三男・信孝が健在でした。

ここで、なんと秀吉は、信雄と組んで信孝に詰め腹を切らせて、この世から消してしまいました。

これで邪魔者は
いなくなった・・・

信雄はバカだから
どうにでもなる・・・

そして、羽柴家の増強を急ぐ秀吉。

とにかく、毛利や上杉と同盟を結んで
いるのは良いが・・・

我が羽柴家をもっともっと
増強しなければ・・・

そのためには、
我が直属の家臣団を充実させねば!

着実に武功を上げる嘉明に対して、秀吉は考えます。

加藤・福島も
大事だが・・・

嘉明も、羽柴家の柱の
一人にしたい!

羽柴家家臣 加藤清正(Wikipedia)

だが、軍を率いて戦うのは、
加藤・福島がいる・・・

すでに、優れた武将の片鱗を見せていた加藤清正と福島正則。

新歴史紀行
羽柴家家臣 黒田孝高(官兵衛)(図説・戦国武将118 学研)

知恵者は黒田官兵衛だが、
加藤はやはり武功者だ。

諜報部隊は
小六(蜂須賀)がおる。

羽柴家家臣 蜂須賀正勝(Wikipedia)

急速な羽柴家の膨張に対して、家臣団の整備を急がなければならない秀吉。

のちに「人材が綺羅星のごとく」いたかに見える羽柴家。

竹中重治(半兵衛)が若くして病死してしまい、この頃はまだ脆弱な組織でした。

この点においては、羽柴家は徳川家よりもはるかに見劣りがしました。

なんと言っても、もともと小さいながらも国主であった徳川家康率いる徳川家。

戦国大名 徳川家康(Wikipedia)

我が徳川には、
三河譜代の優れた武将たちが大勢います。

我が徳川家の宝は、
財宝ではありません。

先祖代々からの譜代の
忠誠心溢れる武将たちです!

徳川四天王(左上から時計回りに酒井忠次、本多忠勝、井伊直政、榊原康政)

私は、家康よりも
才覚は上だが・・・

自分には自信がある秀吉。

あの徳川家の
家臣団の層の厚みは羨ましい・・・

成り上がり者の秀吉は、徳川家の「家臣団の厚さ」が羨ましいです。

「先祖代々の古参の武将」など一人もいるはずがない羽柴家でした。

羽柴家の水軍の要を目指す加藤嘉明:小早川隆景の強力な水軍

新歴史紀行
1583-85年頃の勢力図(歴史人 2020年11月号 学研)

徳川家臣団にいない、
専門の武将が欲しい・・・

野戦では戦国最強の上杉・武田に匹敵する徳川家。

秀吉は「徳川家にないもの」を求めます。

よしっ!
そうだ!

我が羽柴家には、
水軍を扱える武将が少ない。

嘉明を水軍の大将に
育てよう!

徳川にも、
水軍の将は、ほとんどいないはず。

海に面した駿河・遠江・三河が
本拠地だが、家康は内陸的思考だ。

そう決断した秀吉。

毛利家重臣 小早川隆景(Wikipedia)

毛利水軍を束ねていた小早川隆景を呼びます。

毛利元就の三男であり、毛利家の長老格である小早川隆景。

実は、本能寺の変の前から秀吉とは誼を通じており、この頃は「秀吉の直臣」同様でした。

隆景よ。
嘉明に水軍を教えて頂きたい!

ははっ!
お任せを!

おい、
嘉明よ!

お前を
隆景の寄騎とする。

隆景から水軍の采配を
学べ!

ははっ!

そして、我が羽柴家の
水軍の要となるのだ!

私が「羽柴家の
水軍の要」になって見せます!

当時、織田家には九鬼水軍がおり、他に有力な水軍は村上水軍を支配した小早川家です。

その水軍の本家とも言える小早川隆景に水軍を教わり、成長してゆく加藤嘉明でした。

これで、羽柴家は
武闘派に水軍を束ねて、最強よ!

松山城(新歴史紀行)
新歴史紀行

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