本能寺の変 19〜信長の在京理由 1・毛利を朝敵へ・武田勝頼・徳川慶喜〜|謀反成功の理由

前回は「本能寺の変 18〜細川幽斎・幕府勢力・筒井順慶・寺社勢力・近畿管領〜」でした。

織田信長と明智光秀(新歴史紀行)
目次

信長の在京理由

1582年の織田家勢力図(別冊歴史人 「戦国武将の全国勢力変遷地図」KKベストセラーズ)

本能寺の変の際に、「なぜ信長が京にいたのか?」は様々な説があります。

また、明智光秀が、謀反を決断した理由の一つに「信長の国替構想」があります。

近畿の所領を取り上げられ、
地方へ追いやられるのでは・・・

事実上、天下統一を目前としていた織田信長及び織田家。

御館の乱の影響で、かつての強敵上杉氏は著しく弱体化しました。

戦国大名 上杉景勝(歴史群像シリーズ 図説・戦国武将118 学研)

北条家は従属しており、滝川一益の寄騎的存在です。

羽柴秀吉が中国地方へ攻め込み、毛利を圧迫し続けています。

織田家重臣 羽柴秀吉(歴史群像シリーズ 図説・戦国武将118 学研)

中には、「征夷大将軍への就任を朝廷から持ちかけられた」なども説もあります。

あるいは、毛利を自分一人で叩き潰さず、信長に花を持たせようとした秀吉が、

毛利を倒すために、信長様、
ぜひ御出馬ください!

やはり、
余が行かねばならぬか!

と信長に「出馬の依頼をし、信長が応えて備中へ向かった」説もあります。

このあたりは、のちに天下をとった秀吉が、かなりの情報操作をしているため、真相は不明です。

おそらく、「情報の価値」をこの当時最も重視していた秀吉。

本能寺の変に関しては、様々な手紙・公家たちの日記が「第一次資料」とされています。

一方で、それらの資料のどこまでが正確なのかどうか。

のちに、天下人となった羽柴秀吉(豊臣秀吉)。

太閤 豊臣秀吉(Wikipedia)

おそらく、かなりの情報操作を命じ、余計な資料の焼却を命じたでしょう。

本能寺の変当時の毛利家:朝敵へ

毛利家重臣 吉川元春(Wikipedia)

一方で、当時、100万石あまりを有しており、3万人ほどの動員ができた毛利家。

さらに当主・輝元が若く、頼りない存在。

そして、毛利両川である吉川元春、小早川隆景はいずれも50前後。

元々の能力に加え、九州で立花道雪らと死闘を繰り広げた経験があり、脂の乗りきった頃です。

毛利家重臣 小早川 隆景(Wikipedia)

特に強気な吉川元春。

信長め!
来るなら来い!

と言っていたでしょう。

ところが、直前には同程度の版図を有していた武田家が、一気に滅ぼされました。

この時、すでに武田家をはるかに凌駕していた織田家。

慎重な信長は、正親町天皇を動かします。

正親町天皇(Wikipedia)

武田を朝敵に
指定してください。

よかろう!

戦国大名 武田勝頼(歴史群像シリーズ 図説・戦国武将118 学研)

我が武田が
朝敵か・・・

明治維新の際には、徳川慶喜が朝敵に指定され、一気に戦意を無くしました。

徳川幕府第十五代将軍 徳川慶喜(国立国会図書館)

私が
朝敵?

もう
終わりだ・・・

尊王の気持ちが非常に強い水戸出身の慶喜だからこそ、「戦意を大幅になくした」のでした。

勝頼の場合は「戦意を無くした」よりも、周囲の家臣の大規模な離反が痛恨の一撃でした。

上京していた信長は、

毛利を朝敵に
してやろう!

と考えていたかもしれません。

すでに、

毛利など
敵ではない・・・

織田家であり、

まあ、猿(秀吉)一人の軍団では
手に余るかもしれぬ・・・

立場であった織田家でしたが、

出来るだけ、
短い時間で手際よく、毛利を片づける!

そのためには、
武田同様に「朝敵」にしてしまうのが一番良い!

と合理的思考の信長ならば、考えたのではないでしょうか。

新歴史紀行

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