強力な近畿明智軍団を率いた明智光秀〜唐突な備中への援軍命令と心境・「天下エリア」を光秀に任せた信長・織田家当主織田信忠と濃尾・強力な明智寄騎・日本古来の「仏教パワー」持った筒井順慶〜|本能寺の変17・戦国時代の終焉

前回は「明智光秀を超重視していた織田信長〜京を囲んでいた明智家の領土・日本の中枢を押さえた近畿管領・近畿で人生を過ごした光秀・細川藤孝と筒井順慶の背景と軍事力〜」の話でした。

織田信長と明智光秀(新歴史紀行)
目次

強力な近畿明智軍団を率いた明智光秀:唐突な備中への援軍命令と心境

織田家重臣 明智光秀(歴史群像シリーズ 図説・戦国武将118 学研)

徳川家康を安土城に招待して、接待していた織田信長。

私が上様が最も大事な
徳川殿を最大限接待するのだ!

織田信長の大盟友であった徳川家康を一生懸命接待していた明智光秀。

新歴史紀行
戦国大名 徳川家康(Wikipedia)

織田家随一の
明智殿にここまで接待されては・・・

拙者も
果報者です・・・

有難き
お言葉です・・・

やはり、徳川殿も
私が「織田家No.2」と認識しているようだ・・・

内心さらに大いに励んだ光秀。

織田家重臣 羽柴秀吉(歴史群像シリーズ 図説・戦国武将118 学研)

そこに「予期せぬ急報」がもたらされました。

上様!ご自身大軍を率いて
ぜひご出馬下さい!

羽柴秀吉から「対毛利の援軍の早馬」でした。

よしっ!
家康の接待は十分!

光秀よ!
猿の援軍へ向かえ!

ははっ!
直ちに!

名前生年(一部諸説あり)
織田信長1534年
柴田勝家1522年
滝川一益1525年
明智光秀1528年
丹羽長秀1535年
羽柴秀吉1537年
徳川家康1543年
織田信長・織田家重臣・徳川家康の生年

備中の羽柴秀吉軍への「援軍として出陣」を指示されたと言われる光秀。

これを「格下の秀吉の傘下」に「光秀が屈辱感を感じた」説があります。

実際は、当時「織田家No.2」だった光秀に対して、信長は、

光秀よ!
余の前に「余の代わり」となってゆけ!

ということで、「織田家の軍監」という立場だったでしょう。

光秀の人生 (図説明智光秀 柴裕之編著 戎光祥出版)

中国地方とは縁が薄い光秀ですが、

いよいよ
毛利と決戦か!

大いに勇んだでしょう。

丹波平定を完了した頃に光秀は佐久間信盛の追放に伴い、佐久間軍団の大部分を寄騎として預けます。

いわば強力な明智軍団誕生ともいえます。

近江・丹波に加え、南の大和を加えると、完全に京を囲んだ明智軍団。

日本の首都・京都を
守るのは・・・

我が
明智家だ!

織田家では、
私が最も重用されている!

「天下エリア」を光秀に任せた信長:織田家当主・織田信忠と濃尾

織田家当主 織田信忠(歴史群像シリーズ 図説・戦国武将118 学研)

この頃、信長の後継者としての地位を着実に固めつつあった嫡男・織田信忠。

余は隠退して、
信忠に家督を譲る!

信長は形式上隠退して、長男・信忠を織田家の投手としていました。

本能寺の変と同年に武田家を滅ぼした際は、織田家の総大将を務めました。

実質の総大将は滝川一益でしたが、織田信忠は相応の能力を有する人物でした。

本来であれば、京を囲む領土は、嫡男の織田信忠に任せるべきであったかもしれません。

信忠は、
それなりの人物に育った・・・

余の後継者としては、
まず申し分なしだ・・・

この頃、信長のかつての拠点であった尾張・美濃を領有して、東の武田家を討滅した信忠。

信忠を「尾張・美濃に配した」理由は、対武田ということもあったでしょう。

そして、信長も人の子ですから、

私の故郷の尾張、
そして第二の故郷の美濃・・・

非常に豊かな国であり、
余の故郷である国を任せるのは、長男だ・・・

こういう思いがあったのでしょう。

そして、京を囲むように領土を持つ明智光秀とその寄騎たち。

当時「天下」とは「近畿周辺を指す」言葉でもありました。

文字通りの「天下」は織田信長のものでしたが、

近畿の「天下エリア」は
光秀に差配させい!

「天下エリア」を光秀に任せる判断をしたのでした。

これほどの強力な立場を、光秀に任せた信長。

戦国大名 織田信長(歴史群像シリーズ 図説・戦国武将118 学研)

よほど信長は、光秀を信頼していたのでしょう。

1582年時点ならば、山城周辺は織田家直轄地にしても良かったように思います。

信忠は岐阜・尾張中心としても、他の子どもたちなど一族に任せてもよかったでしょう。

それでも、信長は、

いや、近畿の「天下エリア」は
光秀が最も適任だ!

よほど、信長は明智光秀を高く評価して、信頼していたのでしょう。

丹波平定後の光秀の領地(図説明智光秀 柴裕之編著 戎光祥出版)

強力な明智寄騎:日本古来の「仏教パワー」持った筒井順慶

織田家家臣・明智寄騎 筒井順慶(Wikipedia)

興福寺の影響力が非常に強い大和。

大和は「難治の国」として非常に有名でした。

そして、この大和を納めさせたのは、興福寺にゆかりのある筒井でした。

興福寺の有力宗徒が武士化して、戦国大名となった筒井家。

戦国大名 松永久秀(Wikipedia)

一時は、松永久秀に大和を追われます。

大和は、
松永のものだ!

くっそ〜!
松永に、してやられた!

その後、信長に降った松永は謀反を企みます。

一度目は許されたものの、二度目は信長に完全包囲され、最後は爆死しました。

大和は興福寺ゆかりの
筒井が良いかと。

確かにそうだ!
筒井に任せよ!

よしっ!
そうせい!

この「光秀の推薦」は非常に合理的発想でした。

その後、筒井順慶が大和国主として返り咲いたのは、光秀の口利きが理由でした。

光秀殿のおかげで、
大和国主に返り咲いた・・・

光秀殿には
一生恩に着なければ・・・

その筒井が明智の寄騎となるのは「自然の成り行き」でもありました。

そして、興福寺という奈良の大寺を背景にする筒井順慶。

日本古来の仏教のパワーを背景とする、大きなパワーを潜在的に持つ人物だったのでした。

新歴史紀行

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