一躍織田家重臣になった羽柴秀吉〜驚愕した柴田と佐久間・合戦で超強力な軍事力発揮した中世の「民衆パワー」・明智光秀と徳川家康と共同軍〜|羽柴秀吉11・能力・人物像・エピソード

前回は「金ヶ崎の戦いで殿軍で大奮戦した羽柴秀吉〜「守るべきもの」がない秀吉・メリット活かして諸国流浪・中世の「民衆パワー」蜂須賀正勝たちの断続的協力〜」の話でした。

羽柴秀吉(歴史群像シリーズ 図説・戦国武将118 学研)
目次

一躍織田家重臣になった羽柴秀吉:驚愕した柴田と佐久間

金ヶ崎の戦いの殿軍で奮戦する秀吉(歴史人2020年7月号 KKベストセラーズ)

金ヶ崎退却戦において、秀吉は用兵巧みに戦い、浅井・朝倉軍を退けました。

それまで、「調略がメイン」の役割とも言えた秀吉。

私は調略ばかりではなく、
軍事能力も高いのだ!

この退却戦で、非常に優れた軍事的才覚を見せつけた秀吉。

織田家重臣 柴田勝家(歴史群像シリーズ 図説・戦国武将118 学研)

猿は戦は
全然ダメだと思っていたが・・・

猿め!
なかなかやるな!

v
織田家重臣 佐久間信盛(Wikipedia)

猿は
思ったより、軍事も強いな・・・

優れた武将がキラ星の如く集まっていた織田家。

名前生年(一部諸説あり)
織田信長1534年
林秀貞1513年
柴田勝家1522年
滝川一益1525年
佐久間信盛1528年
明智光秀1528年
丹羽長秀1535年
羽柴秀吉1537年
織田信長と織田家重臣の生年

最も身分が低く、年齢も若かった秀吉は一躍織田家重臣の一人に躍り出ました。

明智光秀と徳川家康と共同軍

織田家重臣 明智光秀(歴史群像シリーズ 図説・戦国武将118 学研)

対客船において、「光秀が加勢した」という説もあります。

羽柴殿・・・
拙者も加勢しましょう!

明智殿!
有難い!

この金ヶ崎の退却戦が起きたのは、1570年です。

光秀が信長の元に「足利将軍家の使者」としてに岐阜に行った1568年から、まだ2年後。

グングン頭角を表す明智光秀ですが、まだ光秀の立場はそれほど高くありません。

私は、足利義昭様の
家臣でもあるのです。

新歴史紀行
第十五代足利将軍 足利義昭(Wikipedia)

光秀は
私の家臣なんだぞ!

光秀は、足利家と織田家の「両属的立場」でした。

もともと「木下藤吉郎」だった羽柴秀吉。

秀吉は、丹長秀と田勝家から一字ずつもらって「羽柴」と名乗り、気を遣った。

「羽柴」と言うのは、
丹羽殿、柴田殿に気を遣ったが・・・

名前としては、
結構気に入っている!

まだまだ身分は高くはないとは言え、10年以上信長に仕えていました。

「家康も協力した」という説もあります。

戦国大名 徳川家康(Wikipedia)

織田殿は、
もう退却したのですか・・・

織田家の格下とは言え、「同盟」相手の徳川家康。

本来、信長が飛んで退却した以上、残る義理はありません。

本来の家康の立場であれば、「一部の部隊が加勢」くらいでちょうど良いのですが、

羽柴殿、
我が軍も加勢いたしますぞ!

徳川殿!
有難い!

この頃、心気が良い若者であった家康。

「家康自ら殿軍を指揮した」のも、ありえる話でしょう。

合戦で超強力な軍事力発揮した中世の「民衆パワー」

羽柴家重臣 蜂須賀正勝(Wikipedia)

光秀や家康の協力があったかもしれませんが、中心となるのは羽柴軍です。

秀吉は、蜂須賀正勝らと相談して、「留まっている織田軍が大軍勢いる」と見せる策に出ます。

我が軍が大軍であるように、
見せるのだ!

なるほど!
面白いな!

そういう作戦は、
俺たち得意だぜ!

この策は、退却戦においては非常にオーソドックスで、基本とも言える戦術。

たくさんの旗や幟を用意して、多くの「伏兵」が一斉に鬨の声をあげさせます。

おい、みんな!
旗を持って、大声上げろ!

そして、「大軍がいるかの如く」見せかけて、主力の朝倉軍を翻弄したことが大事なポイントです。

戦国大名 朝倉義景(歴史群像シリーズ 図説・戦国武将118 学研)

この頃の朝倉家は、若狭武田氏も併呑したため、90万石程度の経済力がありました。

どうも、織田軍の
殿軍は大軍のようだな・・・

殿、織田に
痛撃与えましょうぞ!

この真柄直隆が
一番槍仕る!

さらに、真柄直隆などの優れた武将が北陸の強兵を率いた「手強い存在」でした。

金ヶ崎侵攻路・撤退路(歴史群像シリーズ 図説戦国合戦地図集 学習研究社)

ところが、あまり戦闘的ではない朝倉義景。

「凡庸を絵に描いたような男」とも言われる朝倉義景は、手ぬるい追撃戦を行います。

まあ、それほど
無理せんでも・・・

我が越前から
信長を追っ払うだけで十分だ・・・

わざわざ、追うほどのことは
あるまい。

敵の大将の義景が、
凡庸で良かった・・・

朝倉義景が凡庸だったこともあり、秀吉は九死に一生を得るのでした。

新歴史紀行

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