毛利と奮戦し続ける武雷神道雪〜大友家の興隆・半身不随の道雪・毛利家の思惑・北九州睨む元就・大友と毛利の衝突・筑前での戦い大友家と島津家・鎌倉以来の守護島津〜|立花道雪2・人物像・能力

前回は「大友家の武雷神・立花道雪〜西国の武闘派代表・超名門の大友家と大内家・宗麟が目論んだ大内+大友の巨大連合・毛利との死闘〜」の話でした。

立花道雪(歴史群像シリーズ 図説・戦国武将118 学研)
目次

大友家の興隆:半身不随の道雪

カゴに乗って采配を振るう立花道雪(歴史人2020年11月号 KKベストセラーズ)

北から毛利家の猛烈な圧力が増加する中、立花道雪は奮闘します。

若き頃に雷に打たれて、半身不随になるも、北九州で奮闘を続けた道雪。

半身不随となったが、
我が軍事能力・采配は変わらぬ・・・

いや、むしろ
我が軍事能力が神がかったのだ!

1559年頃の九州勢力図(歴史人2020年11月号 KKベストセラーズ)

1559年頃には豊後・豊前・筑前・筑後・肥前・肥後の6カ国に渡り、広大な領土を有した大友家。

大友家の猛烈な勢いが感じられます。

戦国大名 大友宗麟(Wikipedia)

我が大友家が
九州最強の大名よ!

そして、名実ともに「九州6カ国の守護」となった大友家。

大友家は、九州六カ国の守護。
九州最強なのだ!

信長が桶狭間の戦いで一気に世に出てくる頃、龍造寺家をも従属させていた大友家。

龍造寺 隆信(Wikipedia)

ワシは、
大友家の家臣ではないが・・・

まだまだ力不足ゆえ、
従属し、雌伏していたのだ!

のちに「肥前の熊」と言われ、北九州で大暴れする龍造寺隆信すら従えていた大友家。

石高にして、180万石程度に迫る勢いであり、九州の地の利を活かして貿易もしていました。

この頃、日本で最強大名の最有力だったのが大友家でした。

大友家は巨大な版図に大きな経済力・鉄砲など最新鋭の兵器を持ちました。

さらに、立花道雪ら優れた武将たちを抱え、隆盛期を迎えます。

この時点では、関東を席巻した上杉氏、中国・九州地方の毛利氏と並びます。

そして、戦国三強の一角となっていたといえます。

毛利家の思惑:北九州睨む元就

戦国大名 毛利元就(Wikipedia)

ここで、大内家を倒し、一躍中国地方の雄となった毛利元就。

その毛利の視線が、九州に向かいました。

瀬戸内海から、
関門海峡の制海権を握れば・・・

日本海から、九州への
海路を独占できる・・・

広大な流通経路を制圧すれば、
毛利は益々栄えるだろう!

毛利の視線が北九州に向いた時点で、毛利と大友の戦いは避けられませんでした。

ここで毛利と大友は、「お互いの背後を固める」同盟を締結していたら、戦国時代の様相は大きく変わったでしょう。

甲相駿三国同盟(歴史人 別冊「戦国武将の全国勢力変遷地図」)

武田・北条・今川の甲相駿三国同盟のように、毛利は中国地方、大友は九州地方を攻めていたら、全く違ったでしょう。

そして、大友と毛利の衝突の時期が近づいてきました。

立花道雪は、
手強い存在だ。

だが、我が息子達も
優秀だ・・・

毛利家重臣 吉川元春(Wikipedia)

なんと言っても、毛利家には毛利元就の次男・吉川元春、三男・小早川隆景という優れた武将がいました。

毛利家重臣 小早川 隆景(Wikipedia)

大友の家臣達も
強力だが・・・

元春に隆景が居れば、
勝てるだろう・・・

そして、なんといっても、
まだこのワシが健在だ!

こう考えた毛利元就。

大友と毛利の衝突:筑前での戦い

上杉謙信(歴史群像シリーズ 図説・戦国武将118 学研)

この時点で、上杉家・毛利家・大友家それぞれの人材の総力は甲乙つけがたい状況でした。

後世の評価は、毛利元就・上杉謙信の方がはるかに高い大友宗麟。

1560年頃の宗麟は進歩的で政治的才能も高く、元就・謙信とも伍す存在でした。

1560年頃は立花道雪は50手前で、戦国期の感覚では「高齢」と言って良い年齢です。

名前生年(一部諸説あり)
立花道雪1513年
大友宗麟1530年
毛利元就1497年
武田信玄1521年
上杉謙信1530年
織田信長1534年
立花道雪と戦国武将・大名の生年

ここで毛利・大友双方が矛を収めて入れば、もう少し安寧とした人生が送れたかもしれません。

それとは裏腹にこの後、毛利と大友は北九州を舞台に長年の死闘を演じることとなります。

我が調略で、
筑前の国人達を大友から引き剥がしてやろう!

毛利元就の調略によって、筑前の国人たちの離反が相次ぎます。

敵を倒しても、
またすぐに敵が出てくる。

この道雪が、大友家に敵するものを、
全て叩き倒してみせる!

そして、立花道雪は北九州の戦場を猛烈に駆け回ることになります。

まさに「大友家の鬼」として、北九州各地を戦い続けたのでした。

大友家と島津家:鎌倉以来の守護・島津

戦国大名 島津義弘(図説・戦国武将118 学研)

後の幕藩体制から明治維新にかけて、九州で最強・最大の島津薩摩藩が、九州において最重要な位置を占めます。

薩摩は海の南から琉球などを通して、世界と繋がります。

長崎・出島と並び、薩摩が「外国との窓口」となっていきます。

ところが、まだその島津家は内部抗争に明け暮れており、南九州の小大名に過ぎなかったのでした。

我が島津家は、鎌倉以来の
守護である名家だ!

戦国のこの頃、外国との窓口・南蛮船との貿易などに関しては、南九州よりも北九州の方がはるかに比重が高かったのです。

そして、九州の政治的・軍事的重心は、大きく北側に寄っていたのでしょう。

その意味で、「九州で毛利・大友が死闘を続けた」のは必然でした。

「西の川中島合戦」とも言える毛利・大友戦。

この道雪の采配で、
毛利めを叩き潰してみせよう!

そして、武雷神・立花道雪は、大友家の戦場の最前線での総司令官的立場で奮闘します。

新歴史紀行

この記事が気に入ったら
フォローしてね!

目次