織田家の中枢にのし上がった明智光秀〜「足利と織田をつなぐ男」から近畿管領へ・謙信と信長の決戦「手取川の戦い」と「光秀不在」の織田軍〜|明智光秀8・人物像・軍事力・エピソード

前回は「明智光秀に流れる室町幕府の優れた人材〜明智に合体した細川・京追放後の現将軍足利義昭の動き・織田家の更なる膨張へ・最強の北陸方面軍誕生〜」の話でした。

明智光秀(歴史群像シリーズ 図説・戦国武将118 学研)
目次

謙信と信長の決戦「手取川の戦い」と「光秀不在」の織田軍

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戦国大名 上杉謙信(歴史群像シリーズ 図説・戦国武将118 学研)

1577年に織田信長と上杉謙信との決戦が行われようとしていました。

信長めを
叩き潰してくれるわ!

長年、対武田で織田と上杉は友好関係を保ってきました。

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1562-68年頃の勢力図(歴史人 2020年11月号 学研)

織田信長が岐阜奪取後に飛躍する反面、上杉家は関東で手こずり続けて、領土は広がりませんでした。

信長めを
叩いて、出来れば上洛!

信玄亡き後、信長を叩けるのは
俺だけだ!

と考えた謙信は、大挙して1577年に北陸に乗り込んできました。

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織田家重臣 柴田勝家(歴史群像シリーズ 図説・戦国武将118 学研)

なんの!
我が織田軍が謙信を蹴散らしてくれるわ!

北陸方面軍司令官として、本願寺・一揆勢を蹴散らし続けた柴田勝家。

ただ、相手が謙信では、士気が異常に高いため手こずったものの「戦闘の素人」一揆勢とは訳が違います。

とはいえ、謙信率いる
精強な軍勢か・・・

ここで、信長は、織田家の総力を結集して謙信にあたらせました。

すなわち、羽柴秀吉・滝川一益たちを応援に向かわせました。

ただ、この時も光秀は「近畿周辺」にいることが重要視され、謙信との戦いには向かっていません。

とにかく、「光秀は中央」に置かれており、秀吉は西に東に信長の命令を受けて飛び回っていました。

織田家重臣 羽柴秀吉(歴史群像シリーズ 図説・戦国武将118 学研)

西の中国地方へ向かったと思ったら、
今度は東の北陸か・・・

疲れるが、
信長様のため!

ちっ!
権六の指図を受けるのか・・・

「犬猿の仲」というよりも、ほとんど勝家が「一方的に秀吉が大嫌い」だった仲の二人。

「根本的に合わない」二人でしたが、勝家の

猿はただの
おべっか使いで大嫌いだわ!

という気持ちは秀吉に反射して、

権六なんか
大嫌いだわ!

この「犬猿の仲」の二人でも「最強・謙信相手ならばまとまる」はずでしたが、

柴田殿とは
考えが合いません!

私は、安土の信長様を
守るために、帰ります!

「手取川の戦い」の直前、柴田勝家と喧嘩して「勝手に戦線離脱」した羽柴秀吉。

そして、羽柴軍が離脱して「織田家の情報部隊」がなくなった柴田軍。

はっは〜!
俺はここだぜ!

ま、まさか!
謙信がこれほど素早いとは!

「謙信の居所を掴む」という基本的な諜報活動を怠り、

一度、
退却だ!

逃さんぞ!
全員叩き潰せ!

こうして、織田家は上杉軍に完璧は大敗北を喫したのでした。

織田家の中枢にのし上がった明智光秀

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戦国大名 織田 信長(歴史群像シリーズ 図説・戦国武将118 学研)

猿めが!
勝手な真似しおって!

ははー!
お許しを!

信長の性格からして、この秀吉の戦線離脱行為は、所領没収だけではなく「切腹もの」でした。

ところが、自分の「織田家における立場」を十分すぎるほど理解していた秀吉。

信長様は、
私を必要としているはず・・・

私を
消すはずがない・・・

「信長は自分を消すことはない」と秀吉は確信を持っていたのでしょう。

織田家の情報部隊の中枢を握っていた秀吉。

さらに、蜂須賀小六らの正規軍ではない傭兵部隊とのコネを持っていた人物。

これは秀吉以外には、ほとんどいなかったのです。

この頃、光秀が丹波攻略に乗り出していました。

織田家の中枢に
のしあがったぞ!

自分がメインとなる出番がなかったことに、少なからずストレスを感じていたでしょう。

光秀ばかり
目立ちおって!

織田家重臣 佐久間信盛(Wikipedia)

当時は、後に追放となる佐久間信盛が近畿で大軍団を握っていました。

当時の織田家は、柴田・佐久間体制とも言える状況でした。

後に信長に追放されたため、佐久間信盛は、その功績の割には非常に低い評価です。

私なりに
一生懸命戦ったんですが・・・

一方で、大坂の本願寺相手に「消極的だった」とは言え「包囲することが仕事」だったのです。

そして、長年に渡って数万もの大軍団を率いた力量は並大抵ではありません。

数万の部下将兵を長年
統率したのですぞ!

信盛が凡将というよりも、光秀・秀吉・勝家ら「織田家の諸将のレベルが高すぎた」のでしょう。

「足利と織田をつなぐ男」から近畿管領へ

法主 本願寺顕如(Wikipedia)

仏敵 織田信長を
討滅せよ!

これほどの大軍団を長期に渡って率いた人物は、大名格を除くと非常に少ないです。

そのため、佐久間信盛は、評価されている以上の采配・統率能力を有していたと考えます。

対して、信長に大いに目をつけられた光秀。

そろそろ大軍団を任される明智光秀でした。

光秀は「柴田でも佐久間にも任せることができない重責」を信長から命ぜられました。

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長篠合戦図(図説豊臣秀吉 戎光祥出版 柴裕之編著)

そして、見事に長篠合戦前後の「織田の西の備え」の仕事を完了しました。

光秀よ。
よくぞ、ワシが不在の京を固めた!

信長の覚えはさらにめでたくなり、機嫌良く京都へ帰ってきた信長から労われたでしょう。

光秀も軍団長たる素質があることが、
分かった!

そして、佐久間・柴田に続く方面軍、かつ中央を占める軍団を信長から任されました。

織田家重臣 滝川一益(歴史群像シリーズ 図説・戦国武将118 学研)

佐久間・柴田と同格の宿老であった滝川一益。

滝川一益は、まだ軍団長ではありません。

この時、信長は佐久間追放を、まだ考えてなかったと思われます。

1580年の佐久間信盛追放後には、その麾下の大名の多くが光秀に配属されます。

織田家重臣 細川藤孝(幽斎)(Wikipedia)

そして、光秀は、元は上司であり仲の良い細川藤孝らと共に、丹波攻略の重責を任されます。

丹波平定後の光秀の領地(図説明智光秀 柴裕之編著 戎光祥出版)

武田家に致命傷を与えた信長はいよいよ、織田家による天下統一後を具体的に考えます。

光秀軍団は、のちの佐久間信盛追放後に佐久間信盛軍団の多くを吸収します。

近畿管領とも
言える超重要な立場だ。

「近畿管領」という役職はなく、正式な役職である「関東管領」に対する「立場」の意味です。

細川・筒井と明智の関係を考えた時、光秀軍団の編成を、信長は早い時期に考えていたでしょう。

室町幕府第十五代将軍 足利義昭(Wikipedia)

信長に仕え始めた頃の光秀は、足利義昭と信長の両属的立場でした。

「足利と織田をつなぐ男」としての役目が最重要でした。

そして、光秀は少しずつ信長に重用されていきました。

そして、1573年に室町幕府第十五代将軍 足利義昭を追放した信長。

光秀は、軍事・政治・調略と
全て優れている。

仕え始めて8年。

そして、足利義昭が京から追放されて4年は、織田家一筋に生きてきた光秀。

この間、光秀を誰よりも見続けてきた信長は、その巨大な能力とセンスに気づきます。

光秀めの能力を上回る武将は、
いないのではないか。

無論、
私の方が上だがな!

この秀吉も
優れておりますぞ!

光秀に
全てお任せを!

軍事に政治に知略に、と全て揃った明智光秀。

私が織田家の
屋台骨を支えるのだ!

そして、
戦国の世を終わらせるのだ!

光秀は、さらなる飛躍を始めようとしていました。

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